このレポートは、一般社団法人アーツグラウンド東北の事業として実施した「シンポジウム 次代を担う東北の文化的コモンズをつくる」の記録です。

本プログラムはシンポジウムと、それに先立って実施された関連の勉強会で構成されていますが、レポートはシンポジウム本体のみの報告となります。

 

※本記事では、シンポジウムレポートのあとに、事業全体のスケジュールおよび振り返りを掲載しています。


【レポート】 シンポジウム

次代を担う東北の文化的コモンズをつくる

このレポートは、シンポジウム「次代を担う東北の文化的コモンズをつくる~誰もが参加できる文化的入会地とは~」より構成した。

 

日時:20181022日(月)1530-1730

会場:SENDAI KOFFEE CO.

コメンテーター:戸舘正史氏・小川智紀氏

ファシリテーター:桃生和成氏

マスター:千田優太氏

主催:一般社団法人アーツグラウンド東北

 


同質化してしまう「コミュニティ」から脱出し、「コモンズ」を描く

同会場で本シンポジウム前におこなわれた関連企画「アートノード トーク」では、小松理虔氏(地域活動家・ライター)より「コミュニティ」は同質化してしまうことがある。そこから脱出していくために「コモンズ」について考えていく必要があるのではないか?という問いが最後に掲出された。

ファシリテーターの桃生氏から、この問いかけを引き継ぐ形で、今回の「次代を担う東北の文化的コモンズをつくる~誰もが参加できる文化的入会地とは~」を展開していきたいと語られシンポジウムがスタートした。

 


そもそも「コモンズ」とは何か?

戸舘氏:「コミュニティ」が同質化してしまうことからどうすれば脱することができるのか? の一つの理想型のイメージとして「コモンズ」があり、そこから出発したい。昨年までは、制度に寄ったところで「文化的コモンズ」※について話し合ってきたが、今回は制度の観点からではなく、現場の人たちが実践しイメージしている「コモンズ的なるもの」を腹の底から引っ張り上げて、「では、文化とはなにか?」というのを考えられたらと思う。

そして、文化界隈の外にいる人たちに「文化的コモンズ」について投げかけたときに、どのような反応がくるかを想像する必要がある。つまり、「文化」という言葉を聞いてもピンとこない、もしくはアレルギーを持つ人もいるかもしれないことが容易に想像される中で、どのような問いを立てれば、一緒にこのことについて議論できるのかをまず考えないといけない。そうした先で、公立文化施設に限らず「文化的コモンズ」をできるだけ外に拡張していきたいし、どうすればそれが可能かを本日のシンポジウムの要点にしたい。

 

「文化的コモンズ」は、一般財団法人地域創造が「平成2425年度 災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究報告書ー文化的コモンズの形成に向けてー」の中で提言した概念であり、「地域の共同体の誰もが自由に参加できる入会地のような文化的営みの総体」を指す。また、同団は「平成2627年度 地域における文化・芸術活動を担う人材の育成等に関する調査研究報告書ー文化的コモンズが、新時代の地域を創造するー」で、「文化的コモンズ」 が地域の活性化やアイデンティティの確保につながるものと示すとともに、その形成の担い手であり、人々と地域、文化芸術を多様な方法でつなぐ「コーディネーター」が不可欠であるとも言及している。


昨年度の報告書はこちら

コメンテーター:戸舘正史(とだて・まさふみ)氏
愛媛大学社会共創学部寄付講座 松山ブンカ・ラボ ディレクター
専門は文化政策/アートマネジメント。2007年より月見の里 学遊館企画スタッフアートマネージャー、2012年よりNPO 法人アートフルアクションのプロジェクトディレクション、アーツカウンシル東京調査員、2014年よりアーツ前橋教育普及担当学芸員、2015年より一般財団法人地域創造芸術環境部専門、2018年より現職。日本文化政策学会、演劇人会議各会員。共著に『芸術と環境』(論創社、2012年) など。子ども向けワークショップや市民協働型プロジェクトなどの企画・制作、ファシリテーションなどもおこなう。


小川氏:「コモンズ」とは「入会地(いりあいち)」の意で、「みんなが共同で使える場所」を指すが、さらに詳しく「入会」について調べると出てくるのは、ほぼ裁判の判例であり、「みんなが共同で使える場」という考え方が昔は共有されたかもしれないが、現在は、誰のものかその所有権を巡って争われている現状があり、「入会」のシステム自体がいかに前近代的であるかという認識の方が強くなっている。その上で「みんなで使う」「みんなの場所」というのを、現在、どう捉えていったらいいか考える必要がある。たとえば、横浜の米軍基地が地元住民に貸し出した土地が、畑になったり文化活動に利用されたりしたが、その土地が米軍から横浜市に正式に引き渡されると、そのような活動もすべて不可能になった。つまり「コモンズ」「入会地」は、微妙なバランスの中でしか存在し得ないものになっている。

その上で、所有の中にも、「私有」だけでなく、「共有」や「分有」「公有」という持ち方などさまざまあるが、文化にまつわるものやアートには、私的所有ではない持ち方があるのではないかとも考えている。「みんなの共有財産にする」という考え方もあり、「コモンズ」的な考え方が含まれているのではないかと思うことがある。

 

会場1:「入会地」に「みんなが訪れる場所」という意味もあるのならば、それは残酷な面もあると感じる。というのは、「人が訪れる」ことには経済価値が関係していて、経済的価値に変換できる資源を持つ場所であるかどうか、地域が経済的指標によって残酷に査定されている現状がある。あとは「私有財産化」することが、他者が近寄りづらい障壁になることもあるが、「私有地」を文化活動に広く明け渡す可能性も担保されているのではないかという期待もある。


「場所」ではなく「場」を考える

小川氏:「文化的コモンズ」を考える際、どうしても「場所」の単位で考えがちであり、「場所」には目的があらかじめ設定されている。たとえば、「塾」は「勉強するところ」のように。しかし、目的に縛られすぎる傾向がある。「場づくり」などの言葉に出てくる「場」は「場所」とは違う。「コモンズ」の話をしていると、いつも「場所」の話になってしまう。「場所」というのは空間的に限られていてgooglemapでピンを打てるようなものが「場所」。しかし「コモンズ」を考える際、「機能」に着目して「場」の話をしていく必要がある。空間的な話ではなく、社会的意味について議論する必要がある。美術館や塾というある目的を持った空間的場所についてではなく、その場の在り方について議論しないと、「コモンズ」の話になっていかない。「どのような場をつくりたいのか?」について、美術館や塾などの枠組みを取り払ったところで話していかないと「コモンズ」にはたどり着けない。

 

戸舘氏:「場」をつくるのは人であって、人がいることで磁場ができる。だからこそ、コーディネーターが重要になってくるし、その人の中に「コモンズ的価値観」がどれだけ充実しているかが肝になってくる。

 

千田氏:リサーチの際、活動エリアについて問うたときに、回答に困る方が多かった。「地域」と一口に言っても、人によりイメージする地域は異なる。

 

戸舘氏:活動のモチベーションが特定の地名が当てはまる「地域」に即したものなのか、誰か特定の「人」をイメージして動いているのか会場の意見を聞きたい。

 

参加者2:「地域」「みんな」「公平」という言葉を、行政と仕事をしているとよく使われるが、自分の実際の活動エリアは10km圏内で、それ以上は遠くに感じる。また、呼ばれた先で仕事をするノマドワーク的な働き方なので、仕事先の「人」はイメージして働いているが、それがある「地域」のためという意識はあまりない。

 

小川氏:行政区域と文化圏は本来異なり、語る言葉も変わってくるはずなのだけれど、文化活動をしている行政施設でさえ、「地域」を「行政区域」と重ね合わせてしまっている。

 

戸舘氏:行政が「地域に住むみんな」というとき、「同一性の地域」を指している。

 

会場3:蒲地区は全面的に災害危険地域に指定されている場所で、「蒲生」という地名も、おそらく今後は無くなるだろうと言われており、防潮堤に地域の名残をなにか残せないか?と仲間たちと活動している。そこで感じるのは、「蒲生」という土地にこだわらざるを得ない実情があるということ。

しかし、たとえば外から来た支援者が「蒲生のために」と思っておこなったことが、蒲生に暮らしていた人を搾取する構造になってしまうこともある。だからこそ「蒲生」という場に、どれだけ緩やかな意味を発生させることができるのか? を考えている。当事者の意見を先鋭化していくのではなく、解きほぐし、どうすれば関わりしろを持てるのか? ということにこそ取り組まなくてはならないと思っている。そうでないと、分断が起きるばかりだ。

あとは、他分野でも共有できる課題があるはずなので、介護など他分野の人ともゆるやかにつながっていきたいと思っている。

 

会場4:短期大学で音楽を教えながら、地域でJAZZのイベントをおこなっている。助成金を獲得する際、どうしても「地域にとっての意味付け」をおこなわないと助成金が獲得できなかったりする。もちろん、地域を意識することは良い面もあるが、それに縛られることで事業としての広がりをつくれないことも起こり得る。それが苦しいと思うことがある。土地というよりは、そこにある場(ライブハウス)によって大事にしていることが異なっていて、場がつくる魅力は決して自治体単位で説明できるものではない。

 

会場5:都市部に暮らしていると地域性が希薄で、そんなに「地域」を意識することがない。このようなイベントなどが無いと、集まることすら難しいと感じる。

 

戸舘氏:都市部では確かに地域性が希薄になってきているので、こういうイベントなどを仕掛けながら「地域」に別の切り口を持ち込まないと、集まることや共に考えること自体が起こらなくなってきているのはよく理解できる。

 


「みんな」の在り方を問う

桃生氏:会場からのさまざまな意見を聞く中で「みんな」という言葉がキーになっていると感じる。震災以降も「東北は一つ」とか、「みんなで乗り越えていこう」などさまざまな呼びかけがあった。しかしこの「みんな」という言葉が、本当に有効な言葉なのかは一度しっかり議論した方がいいと思う。「みんな」という言葉は、すべてを包括しているように聞こえるが、ズルい言葉なのではないかと思うことがある。「コモンズ」や「コミュニティ」を考えるとき、どうしても「みんな」という言葉は避けて通れない気もしている。「みんな」の結束が強ければ、逆に分断が起き、そこに入れない人も出てきてしまう。この「みんな問題」をどのように考えたらよいか?

ファシリテーター:桃生和成(ものうかずしげ)氏

一般社団法人Granny Rideto 代表理事
1982
年仙台市生まれ、いわき市育ち。宮城大学大学院事業構想学科空間デザイン領域博士前期課程修了。大学時代、地域通貨とごみ拾い活動を組み合わせた「シネマ・ストリート・プロジェクト」に参加し、市民活動に出会う。2008年、NPO法人せんだい・みやぎNPOセンター入職。多賀城市市民活動サポートセンター長を務めたのち、2016年退職。利府町まち・ひと・しごと創造ステーションtsumikiディレクター(2016年~)、シェア型複合施設THE6ディレクター(2016年~)、東北文化学園大学非常勤講師(2018年~)。


小川氏:やはり多数決に問題がある。多数決は、少数の側が従うしかない仕組み。「イヤなものはイヤだ」というのが本来はあっても良いし、多数決ではない「みんな」の在り方というのが、これまで形成されてこなかったのだと思う。市民自治や住民自治という言葉もあるが、多数決ではない合意形成のやり方がもっと積み上げられていればよかったのかもしれない。「公共性」の話をしていたはずが、経済合理性に絡めとられ、「公益性」の話にすり替えられることもよくある。しかし、同時に、このような話をどこですれば良いのかがよくわからないもどかしさがある。

 

戸舘氏:そもそも選挙制度にも問題がある。小選挙区制度は、5149だと49は捨てられてしまう。しかし、多数決に対する疑念すら、もはや湧いてこない風潮もある。その中で、マジョリティ優位論に対する、疑義が出されることは重要。そもそも、文化や芸術は多数決で物事を決めるものではないが、確かに演劇みたいな集団芸術には、多数決などで物事を決めなくてはならない局面も出てくるのかもしれない。しかし、多数決で決定される文化や芸術は迎合的でおもしろいものではなくなってしまう。文化芸術は、どんなヘンテコで奇異なものであっても、それが表現として社会に存在することを認める寛容な眼差しだと思う。その中で、昨今のアートワークショップなどで一人ひとりをたてながらおこなうのは難しいという現状も感じている。「芸術の多様性を担保しながら、それでもみんなで何かするというのは可能かどうか?」というのは常に自問自答していることでもある。

 

小川氏:自分で演劇ワークショップなどをやっていて一番印象的だったのは、ある稽古場で作品をつくっているときに、1人の子が泣き出してしまい、稽古場に来られなくなったこと。確かにその子はトラブルメーカーでもあったが、「その子が稽古場にいない」ということがものすごく大きな意味を持つのだと気付いた。合意形成は、そこに集まった人たちの中でなされるものだと思われているが、実はそこにいない人のことが場に与える影響は無視できないものがある。つまり、合意形成の際、目の前にいる人たちと決めたことが真実でもあり、嘘でもある。

 

コメンテーター:小川智紀(おがわ・とものり)氏

認定NPO法人STスポット横浜 理事長
1999
年より劇作家・演出家の如月小春に師事し、芸術普及活動の企画・制作に携わる。2003年、文化庁新進芸術家国内研究員。2004年より NPO法人STスポット横浜でアートの現場と県内の学校現場をつなぐコーディネーターとして活動。2009年、横浜市芸術文化教育プラットフォーム事務局。2014年より民間の芸術文化活動を支援する横浜市地域文化サポート事業・ヨコハマアートサイト事務局長。2018年より愛知大学文学部非常勤講師、横浜市障害者スポーツ文化センター指定管理者選定評価委員会委員。

 


会場:合意形成の際、ある一定水準の情報共有をすることが大事だと考えている。被災地域で活動する際、支援者、地域に暮らす人などさまざまなレイヤーの人が一緒に動くと、年代で使うメディア(SNSや回覧板など)も異なるため、情報量にバラつきが出る。全員が同じ情報を持った上でテーブルにつかないと、そもそも合意形成自体が始められない。

 

会場7:昨年、家族で仙台から大船渡に移住した。そこで小中学校の統合問題が出てきた。大人が集まり何度も話し合いの場を持ったが、最終的にはアンケートで決定することになった。その結果、統合反対の人もいる中で、賛成多数で統合が決定した。夫が、統合反対の理由を50枚くらいの論文にして提出したが、多数決で決着したと押し切られた。こういうことは今後も起きることが想定できるが、はたしてどうしたらいいのだろう?といつも悩んでいる。

 

戸舘氏:「みんなは個人の連なりだ」という考え方が、マジョリティに浸透すれば、単純な多数決ではない合意形成の仕方が編み出されるのではないかと思う。あとは、「文化的コモンズ」という言葉が指し示しているように、「文化的」と頭に付すことで、「コモンズ」に「多様性が担保されている」という註釈がつく。だから、やはり「コモンズ」だけでなく「文化的コモンズ」を考えていく重要性を感じる。

 

会場8:普段、介護の仕事をしている。ときどき考えるのは、「目の前に10人の人がいて、1人しか助けられないとしたらどうするか?」ということ。少し残酷に聞こえるかもしれないが、「1人に手を差し伸べる勇気よりも、9人を見捨てる覚悟を持つことが大事だ」ということ。つまり、見捨てる者への眼差しと覚悟の話。

あと、よく「みんなでつながろう」などという言葉を耳にするが、「つながり」を相手に迫ることは、逆に相手との「つながり」を切断することになり得るとも思う。

 

小川氏:会場からのさまざまな話を聞いていると、排除の話が気になってくる。たとえば、今回のイベントは平日の1530から開催なので、勤め人を排除しているとも言える。では、「参加できない人のために、イベント時間を少しずらす」などしてみると、たいてい誰も来ない。「誰かのために」の裏側には、大なり小なり排除が生まれる。だからこそ、その排除をある程度引き受けていく覚悟も必要だと思う。

 

会場9:仙台にはさまざまなNPO団体やボランティア団体があり、その中間支援の仕事をしている。そこで見えてくるのは、それぞれのNPO団体が同質ではなく全く異なっているということ。たとえば、犯罪の被害者家族を支援する団体もあれば、加害者家族を支援する団体もある。同質ではないけれど、どちらか一方ではなく両方が同時に在ることが仙台の文化なのだと思うことがある。

合意形成を考えるときに、決して被害者側と加害者側が直接交わることはなくても、「犯罪のない世の中にしたい」という思いは共有できることがある。だからこそ、全く違う立場や意見の人たちが同じ地域で活動しているというこの環境と、そのような人たちを寛容にどちらとも支える仕組みが大切なのだと感じる。

 

会場10:目の前にいる人といない人を想像するという話題が出たが、支援の現場にいると、声をあげられる人と声をあげられない人がいることがわかる。あとは、声をあげたくてもあげられない人もいる。しかし、声の大きい人や声をあげられる人の意見が採用されることはよくある話。声なき声にただ思いを巡らせるだけでなく、どのように拾い上げることができるのか? を常に考えている。

 

千田氏:「アーツグラウンド東北」では、幼稚園などにアートプロジェクトを届けるという活動をしてきたが、重度障がい児病棟で活動したことがある。そこで初めて、「こういう方たちがいるんだ」と知った。その方々と出会う前は、「みんな」と自分が口にした際、重度障がいの方は含まれていなかった。出会いによって、自分の中の「みんな」が更新されていった経験もある。

マスター:

千田優太氏(一般社団法人アーツグラウンド東北)



「曖昧さ」や「複雑さ」に留まる

桃生氏:これまでの議論を聞いていると、答えは出てこないけれど、それを考えているプロセスが興味深いと感じる。

このようなシンポジウムのような場では、わかりやすい言葉で議論したり、ぐちゃぐちゃしているものを正方形に切り取って話してしまったりもする。しかし、それは危険だとも同時に感じる。だからこそ、今日のような場では、なるべく答えを急がずに、「曖昧さ」や「複雑さ」に留まりながら話していきたい。

 

千田氏:「曖昧さ」や「複雑さ」は大事だと思っているが、コンテンポラリーダンスをやっていると、「わからない=拒否=ダメなもの」という捉えられ方が見えてくる。「わけのわからないことをやっている」と思いながらも、ワクワクしたり、おもしろさを見つけたりすることも本当はできるはず。しかし、それが難しくなっているのは、答えが先にあり、そこにむかって正解を出すという教育が刷り込まれているからかもしれない。

 

会場11:曖昧なものを許す中に、最大公約数的な合意形成の可能性があると思っている。わからなくとも、答えがなくとも、考え続けられる環境があればいいのかなと思う。


「社会教育」の再考から、「文化的コモンズ」の実践へ

小川氏:白か黒かどちらか決めなくてはならないときに、最終的に「一段上の階層で共に集える場をつくる」という作法は、一昔前に「社会教育」の中で語られてきたことでもある。ところが、「社会教育」は文化の面から、一度、駆逐された経緯がある。「社会教育は古い考え方だ」と言って顧みず、どこの社会教育施設も老朽化してしまい、公民館が何をする場所かわからなくなってしまっている現状がある。しかし、そのような社会教育系の施設をもう一度、機能させていくことを考えるべきだと思っている。今、「文化」という言葉はたちまち「観光」と結びつけられ、最終的には「経済」の話になってしまっている。「文化」をもう一度、社会教育的視点から見直す必要がある。

 

会場12:岩手県宮古市でコーディネーターや音楽家として活動している。街の公共ホールを演劇系のNPOが指定管理することになり、演劇に力を入れる方向性になった。そこで、地域性の高い市民劇の公演がおこなわれた際、ほぼ満員の来場者数だった。この市民劇は、いわゆる「文化的コモンズ」的な在りようだったと思える。その一方で、自分は音楽家やコーディネーターとして関わってきたが、市民劇一連の動きが、ぼんやりしているように思えることがある。プロと素人という言い方が良いのかわからないが、演者から「プロじゃないから」、「趣味でやっているのだし」などという言葉を耳にすると、成果や責任がとても曖昧なように思えて、どのように判断すべきか迷うことが多々ある。

 

桃生氏:一昨日、岩手の西和賀町文化創造館銀河ホールを視察し、劇団ぶどう座50年以上前の地域演劇の記録映像を見る機会があった。普段は、農家や役所務めをしている人たちが、自分たちで小屋をつくり、仕事の後に集まって深夜まで稽古をしているものだった。最初は、東京で流行っているものの真似事のような劇をやっていたが、次第に、自分たちの地域の歴史を掘り起こし、ストーリーに仕上げた劇を上演し始めると、地域の人たちの反響がとても大きかったと聞いた。劇中には、役所でのいざこざなど、リアルな場面も多く採用されていた。

 

小川氏:「ぶどう座」のような場があるといいなと思う。僕らは普段、イライラしたり、モヤモヤしたりするけれど、表現に接続するような場が近所にあるのは、とても良いこと。あと、そのような場をつくるのは、やはり人で、コーディネーターの存在と役割はとても重要。トップクラスのホールなどで働く職員には「高い専門性が必要だ」とよく言われるが、地域のコーディネーターの方が実は大変で、難しい仕事だと思う。集まる人やプロジェクトを、コーディネートする際、総合的に見極め実践していくことが重要なので、「コーディネーター養成講座」などで養成できるものではない。ときには、自分のダメさを上手に使い、人と人をつなげていくようなことだってあり得る。そういうことを一つひとつやっていくことでしか、コーディネーターは育っていかない。

 

戸舘氏:「ぶどう座」の演劇は、町内の人たちの支援も受けながら、満員御礼で60年以上継続する活動になっている。しかし、その一方で活動に反発する人たちがいたのも事実。

小川氏が「社会教育を文化が駆逐した」という話をしたが、本来、文化は多様性を担保する価値観、表現、概念であるにも関わらず、なにか単一的な価値を強いるような力学として使われてきてしまった歴史がある。ある活動が分断を招き、溝を深めてしまうという可能性があることは否定できない。

その上で、会場から「仙台には犯罪加害者・被害者を支援する団体がそれぞれにある」と話題提供があったように、主義主張の異なる人たちの対立を煽るのではなく、分断を埋め、あるいは境界線をぼかすために「文化的コモンズ」があるのだと思う。日本も世界も分断を煽るような時代になっている中で、「文化的コモンズ」の考え方を援用し、社会的実践をおこなっていきたいと考えている。今日、さまざまな話を聞く中で、「文化的コモンズ」は文化セクターだけで完結する思想・概念ではなくて、社会運動の実践として用いるべきものだと改めて感じた。

 

千田氏:「文化的コモンズ」というのは、行政用語・文化セクターの用語で、他業種の人には通じない言葉なのかもしれないと思った。だからこそ、きちんと届くような翻訳作業をする必要があると感じている。日本語だからみんなに伝わるのではなく、伝えるために必要な翻訳作業を丁寧におこなっていくべきだと改めて思った。


「おわりに」と「これから」

今回のシンポジウムは、同質化してしまう「コミュニティ」から脱出し、理想としての「コモンズ」いかに描くか? という問いからスタートしたが、来場者との濃密な対話を経て、「文化的コモンズ」がおぼろげながらも見えてきたように思う。それは、主義主張の異なる者同士が一段上の階層で集う「場」であり、分断を埋め、境界線をぼかすために「考え続けること」が担保され、そこにいない人への想像力を働かせながら、実践の中で用いられるべきものだということだ。言い換えると「文化的コモンズ」は実践の中にこそ宿るものなので、この「曖昧さや」「複雑さ」を抱えながらも切実に交わされた対話が、さまざまに活用されていくことを期待してほぼ全文を掲載した。「おわりに」は「これから」に続いている。それぞれの実践の先で再び集えたらと願う。

 

(編集・構成:清水チナツ)


プログラム全体のスケジュール

1020日(土)

【非公開視察】

時間:16:3020:00

場所:西和賀町文化創造館銀河ホールほか

     (岩手県和賀郡西和賀町上野々39地割195番地2

参加者:4

対話者:小堀陽平(西和賀町文化創造館銀河ホール アートコーディネーター)ほか4名

 

1021日(日)

【シンポジウムのための勉強会】

時間: 11:0015:00

場所:鎌鼬美術館

   (秋田県雄勝郡羽後町田代梺67-3

参加者:5

対話者:阿部久夫(学習塾ガロア&書店ミケーネ)ほか3名

 

1022日(月)

【シンポジウム】

時間: 15:3017:30

場所:SENDAI KOFFEE.CO

   (仙台市青葉区春日町4-25 パストラルハイム春日町1F)

参加者:28

 

 

 

 

主催:一般社団法人アーツグラウンド東北

助成:公益財団法人仙台市市民文化事業団

    公益社団法人企業メセナ協議会 GBFund 芸術・文化による災害復興支援ファンド

協力:特定非営利活動法人舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM

 

 

 

 

勉強会の様子 鎌鼬美術館の阿部久夫さんとの対話


全体の振り返り

企画者の視点から

 

 千田優太

 

昨年度の反省を活かそうと、以下の点について新たな挑戦をおこなった。そのポイント毎に振り返ってみたいと思う。

 

① 平日日中の開催

昨年度は休日に開催したのだが、休日にイベント等を企画することが多いアートコーディネーターにとって事業が重なって参加できないという声が少なくなかった。それを踏まえ、平日の日中に開催してみた。その結果、職場が休みなので参加できた方や、仕事として参加していただいた方、また予想していなかったことだが、小さい子を持つ方が夜は参加できないが昼間ならとご参加いただいた。確かに、土日や日中の夜だと預け先がなかなか無いのだが、平日日中であれば保育所等があるので参加しやすいそうだ。

私共の企画だけではなく地域全体を考えた時に、こういった時間設定は社会包摂を考えた時に大事であるなと痛感した。

 

② シンポジウム前に勉強会を実施

前回はシンポジウムのみだったので、参加者も含めた共通認識/共通言語を持つまでに相当な時間が必要であり、時間が足りないという感触があった。その点を克服するために、シンポジウム前に勉強会を実施することでカバーできないかと考え実施してみた。

勉強会はなかなか行く機会が無い初見の場所が良いだろうと考え、秋田県の鎌鼬美術館を設定しておこなった。その際に、設立までの詳細なお話や、写真集「鎌鼬」でのエピソードなど、とても充実した内容の勉強会だったが、やはり2日間の時間を頂戴することの難しさも同時に痛感した。

結果、どちらかのみの参加者しかおらず、狙いであった共通認識を持ってシンポジウムを実施するということは叶わなかった。

方向性としては間違いないことがわかったので、より参加しやすくできるような仕掛けを今後考えていきたい。

 

全体として、このテーマ自体が話し合っても答えが見つかるようなものではないので、延々ともやもやした企画なのだろうということを改めて認識させられた。ただ、様々な地域から足を運んでくださる方々がいるということ自体が大きな財産であると感じている。先日、まちづくりの大学の先生から拝聴した言葉を引用したい。

「まちづくりは、課題解決が目的ではなく、一緒に悩む仲間を増やすことが目的です。」

アートという分野を起点に、まさにそういった場になっていたと思う。このような小さな場を地道に紡いでいければと思っている。

 

 

 

 

 


東北の青い炎

     桃生和成

 

1020日。仙台から車で2時間かけて北上し、岩手県西和賀町へ向かった。今回の目的は、秋田県羽後町にある鎌鼬美術館の視察だが、途中、文化創造館銀河ホールに立ち寄り、スタッフに館内を案内していただいた。文化創造館銀河ホールは、20代、30代の若手スタッフが中心となり、運営を担っている。日々の業務や企画を進める過程から、発生する問題に対して苦悩しながらも、彼らが発する言葉の節々からは舞台芸術への真剣な眼差しと情熱が伝わってきた。西和賀町には、60年以上前に地域住民が発足した劇団ぶどう座があり、結成当時の貴重な映像を銀河ホールスタッフに見せていただいた。この地にとって舞台芸術が生活の一部であること、そして、その精神が脈々と受け継がれていることが明らかとなった。

1021日。鎌鼬美術館を運営するNPO法人鎌鼬の会の事務局長・阿部久夫さんにお会いした。美術館のある羽後町は、秋田県南部に位置する人口15,000人の小さな町である。美しい田園風景が広がり、遠くには鳥海山が見えた。阿部さんは、町内で書店ミケーネと学習塾ガロアを経営しながら、町会議員としても活動されている。そして、舞踏家・土方巽の足跡を残すため古民家を活かした美術館づくりに奔走した。開館までの経緯を伺うと、資金不足やいやがらせ、反対運動が起こるなどここでは書ききれないほど数多くの苦労があったそうだが、その表情はどこか明るい。実現に向けての地道な活動に背景には、阿部さんをはじめ地域住民の情熱があったのだろう。

1022日。2日間の弾丸ツアーを終え、SENDAI KOFFEE CO.で開催されたシンポジウム「次代を担う東北の文化的コモンズをつくる」にファシリテーターとして参加した。西和賀町と羽後町での体験を参加者と共有し、「東北の文化的コモンズ」をテーマに議論を進めた。2つの町を訪れて感じたのは、実に東北らしい粘り強さだった。決して派手ではないが、内に秘めた文化・芸術に対する青い炎が彼らを突き動かしていた。その炎を絶やさないために自分に何ができるか、大きな宿題をもらった3日間だった。

 

 

 

 

鄙びたまちの本屋から

            小川智紀

 

 文化的コモンズの話をしてもカネにならないから駄目だ、と同業者にいわれたことがある。駄目かどうかはともかく、文化的コモンズという言葉は、目指すべき何かを指し示すものというより、状況・状態を指しているから分かりにくいのだろう。

 コモンズの範囲を文化分野に限らずたとえば、創造的なコモンズというと(1)才能が量的、空間的に集中すること(2)それらが相互に融和、コラボ、進化すること(3)多様な連携の存在、人や情報のネットワークの存在、の3点が特徴としてあげられるという(『新コモンズ論』細野助博、中央大学出版部)。なるほどなあ。でもこれはそのまま、まちの機能全般を指している気もする。文化はどこに位置づけられるのだろう。

 今回、東北の文化的コモンズを考えるにあたって、秋田・羽後町にある鎌鼬美術館に出かけた。伝説的な舞踏家・土方巽の活動を記録した私設ミュージアムだ。長時間におよぶ関係者のヒアリングを通して分かったのは、鄙びたまちにある普通の本屋と、その二階にある学習塾で生まれた人のつながりと、彼らの時間的成長が、美術館構想を含んだまちの物語の始点になった、ということだ。

 キーになるのは、従来の「芸術」「アート」の枠組みから離れることだろう。芸術やらアートの旗だけを振っても、好事家にしか届かないことも多い。言い換えれば、変哲もない本屋や塾や、あるいはいま私がいるこの場所から生まれるものはあるか、という問いでもある。

 

 

 

 

揃わないアンサンブルの豊かさ

戸舘正史

 

 リベラルでヒダリ寄りを自認する私は、それなのに、強権的で支配力のある指揮者によるオーケストラ演奏が好きだったりする。かつてはトスカニーニとかムラヴィンスキーとか伝説的な独裁指揮者がいて、自らの意のままに楽団をコントロールし、意に沿わない楽員をクビにすることも厭わなかった。それにしても、スピーカーから聴こえてくる指揮者が意のままに操る表現の訴求力の強さと言ったらない。一方で、現代の優れた指揮者と言われる人たちは、楽員の主体性を重んじて、内発的な合奏能力を引き出していくもので、その代表は数年前に亡くなったクラウディオ・アバドだけど、合奏もすぐにはピタッと揃わないし、指揮者の存在を感じさせない演奏に退屈することもあるし、インパクトも弱い。でも、楽員たちの能動的な表現を聴くことができたときの喜びは大きい。自分が楽員ならば、やはりアバドのような指揮者のもとで演奏したいと思う。

 強力なリーダーシップ、センスのある行政手腕で、制度的に合意形成を図り、地域を盛り立てて対外的な発信性を増している自治体やコミュニティデザインの現場などは、ファシズムでもないし、民主的な手続きをとっているけれど、そこで居心地の悪い思いをしている市民もたくさんいるんじゃないかなと思うことがある。あるいはリーダーの手腕による合意形成には歪みはないのかと疑いも持つ。でも、そんな実践ばかりがもてはやされる。

 一方で、ボンクラの首長だったり、自己主張の弱いリーダーのもとでのまちづくりは、対外的にもインパクトはないし、合意形成はずっと平行線だったりするだろう。でもその平行線を、まとまらないことのプロセスを、内発的な合奏のように豊かにすることもできるんじゃないかとも思う。文化的コモンズ以前の話として、あるいは、いろいろな立場の人がいる社会での、市民運動のありようとして、シンポジウム後半に展開された「合意形成」についての、答えのない堂々巡りの時間がとても豊かだった気がしているし、まずはそこからゆっくり始めてみるのもよいと思っている。